2021年
1月2日(土)
「辛丑元旦」
あけましておめでとうございます
令和3年辛丑
昨年2020年はほとんど更新もせず、ネタだけが残ってしまいました。
しばらくは「tuzi now」ならぬ、「past tuzi」となりますが、
できるだけマメに更新をしていくつもりでおります。
本年も「飛ぶtuzi」をどうぞ宜しくお願い致します
1月4日(月)
「あしなが蜂〜2020夏」
私の習字部屋は4畳(実質2畳)ほどしかない南に面した部屋である。
陽がさせば冬でも暖房機なしでも暖かい。
そこにはコーヒーメーカーも置いてあって、朝はコーヒーを淹れるために部屋に入る。
夏のある日、部屋に行ったら窓際を足長蜂が飛んでいた。
どこから入り込んだものやら、別に用は無いので、「そのうち出て行くだろう」と気にも留めなかった。
だが、数日経っても、足長蜂はよほど居心地が良いのかいっこうに出て行かない。
それにしても飲まず食わずで何日も部屋に留まってるなんて。
私の習字の締め切りが近づいたので、そろそろ部屋を明け渡してもらいたい。
部屋が暖かいので足長蜂は窓際だけではなく、部屋全体を飛び回っている。
窓を開け、自然に出て行くように仕向けるが上手くいかない。
業を煮やした私は殺虫剤を手にした。
飛んでいるのは一匹の足長蜂であるが、私は以前外で刺された経験がある。
椿の木に巣があったのだと思う。うっかりテリトリーを犯してしまったらしく不意に刺されたのだ。
バチッ!
と音がするほどの衝撃だった。左手の親指の付け根を刺された。
腫れることはなかったが、燃えるような激しい痛みはその後長く続いた・・・。
そんな経験から今回は刺されないように仕留めねばならない。
天井すれすれを飛ぶ足長蜂が停まったところをめがけてプシュー・・・シュー・・・シュー
蜂は空中を回り落ちてきた。そこをめがけて容赦なくプシュー・・・シュー・・・シュー
哀れ足長蜂は動かなくなった。
ああ、殺生をしてしまっただよ。南無・・・。
私はその亡骸を静かに外に置いた。
・・・それから数時間。
亡骸を見ると、まだ息がありむずむず動いてるではないか。
だが長くは持つまい、そのうち動かなくなってしまうだろう。
・・・またそれから数時間。
見ると、まだ動いている。
一思いに逝かせてあげるべきだろうか、と頭をよぎったものの、まだ生きようとしてるものをむざむざ殺すことはない。
暑い日だったので、水をかけてあげた。
毒が少しは中和されるかも。
しばらく様子をみていたが、瀕死の状態は脱しない。
花を与えてみよう。傍らに蜜が吸えるようにタンポポを置いてみる。
殺そうと退治しておきながら、今度は必死の介抱。
そうこうするうち陽が傾いて夕方になってしまった。
どうせ最期を迎えるなら仲間の近くが良かろうと、水ウケの皿に入れて、以前刺された樹の下にもって行った。
寒くないように花で身体を覆ってあげた。
そうして一晩あかし、朝行って見ると、
なんと!蜂が消えていた!
え!?どこにいったの?
鳥に食べられた?
いやいや花は散らかってないし。
蟻が運んだ?
いやいや受け皿の高さを越えては運べまい。
仲間が助けに来たのだろうか?
そうだ、そうに違いない。
消えたなんてまったくもって不思議な現象、身勝手とは思うが、蜂は助かったことにしよう。
それにしても、あんなに殺虫剤でやられても、生命力の強い蜂には驚いた。
プロポリス、とか薬になるのも、これまで半信半疑だったが、これで納得がいった。
後日、洗濯物を干しに行ったら、蜂が消えた樹のあたりを一匹の足長蜂が飛んでいた。
私の方に向かって旋回したので、あれはあの時のお礼参りに違いない。
と、これまた都合よく思い込む私なのでした。
1月5日(火)
「落ちたサファイア〜2020夏」
ジュエリーに興味を持ってから、毎月こづかいの範囲で石を買い集めてきた。
ダイヤモンドとか水晶といった透明石には興味はなく、地金だけのジュエリーにも無関心。
純金だ18金だ、プラチナだ、ということにも拘りはないし、興味の対象外。
私の興味の対象は色石といわれる石に限定される。
初めに好きになった石はタンザナイト。世界でタンザニアでしか採れない石で、青と紫の中間色。
好きな石はチャロアイト。これもロシアのチャロ川でしか採れない石で、
マーブル状の模様はすべて一点物だ。複数点持ちたくなってしまう魅力的がある。
私の購入方法はインターネット。ほとんどが海外からの輸入。
サファイアのリングも海外から購入した。
一文字と呼ばれるタイプのリングで、小ぶりのサファイアが5石並んでいる。
気に入ってつけていたら、中央の石が無くなってることに気がついた。
まだ2度ほどしか付けてないというのに、あまりに早すぎるでしょ。
しかも落ちたことに気づかず、石は行方不明。
5石あるうちの中央の1石が無くなって歯抜けたようになってしまった。
販売元にダメもとでメール連絡した。
「無料で送ります」という返事。
届くまで1ヶ月くらいはかかるところなので気長に待っていたが、ひと月過ぎてもまったく届く気配がない。
送ります、と約束しておきながら、どーなんてんだ?と思って連絡したら、
「作るのに手間がかかって面倒なので送らなかった」と返事。
そりゃないだろ、と食い下がったら、「全額返金します」と返ってきた。
返金は素早くなされたが、「作りが面倒だから」ってどういうこっちゃ。
こんな感じで、失敗のほうが圧倒的に多い私のジュエリー道はいつまで続くやら。
1月6日(水)
「ヤブ医者〜2020春」
コロナウイルスの脅威が、全世界で猛威をふるっていた2020年3月。
イタリアでは死者が中国を抜いた。
アメリカでも感染者が爆発し、政治的にも中国への怒りも爆発しそうだ。
どこの国でも外出を控える対策をとるしかなく、ロックダウンした街はうそのような静けさを呈している。
日本でも、テレワークを推奨していて、てかテレワークってどういう意味?いまだに判然としないんですけど。
想像するに家で仕事しなさい、的なことだとは思うんですけど・・・。
だとしても、会社員ともなればそうもいかず出勤している人も多いはず。
各自治体も自粛要請をだしているから、私の太極拳教室も3月から休止状態。
4月はじめに使用許可が下りた際に行ってみたが、誰も来ない。
その翌週には、また使用禁止となり、いつ再開できるかまったく分からない。
自宅で始めた書道教室も3月は開催したが、安全を考えて4月から添削に切り替えた。
すべてが休止。
太極拳教室を再開したのは7月。冷房暖房をしても常に扉は開けたまま。
そして2教室のうち1教室は自粛したままだ。
今春の再開を予定しているが、先行き不透明であくまで予定というしかない。
早く以前のマスクの必要のない日常、自由に安心して出かけられる日常、飲み会で友人と語らえる日常を取り戻したいと願う。
ウイルスが騒ぎを見せ始めた時期を同じくして、うちの飼い猫チッチが具合を悪くした。
始めは片目が真っ赤に結膜炎の症状になった。
そのうちくしゃみをし始め、そして鼻が詰まった。
呼吸が苦しそうで死んでしまうのではないか、と思うほどだった。
鼻が詰まって呼吸ができず、口を開けるようになり、食事も取りずらそう。
それでも少しは食べていた。
でも大好きな牛乳も飲まなくなったので、食欲がないことには違いない。
そのうち咳をしはじめ、食べたものを吐き出すほどひどい咳になっていった。
これではもう私の手に負えない。
近くの獣医に連れて行くことにした。ヤブ医者と評判だが、少しでも改善されたらと思ってチッチを連れて行った。
薄暗い受付に男性が立っている。
受付係りの助手だろうか、看護士だろうか。なんのなんの、彼こそが獣医だった。
ここには助手も看護士もいないのか。受付係りさえもいないとは。
治療は注射一本でおしまい。
目薬を持たされて帰ってきた。
会計係りも獣医本人で5000円の明細、領収書もない。どんぶり勘定ではないか。
やはり評判どおりのヤブ医者だった。チッチはいったい何の注射をされたんだ?
チッチをヤブ医者になどに任せることはできない。
こうなったら私が名医と呼ぶS先生に行くしかない。S先生は口は悪いし、高額請求だが腕はピカイチなのだ。
チッチは猫風邪と呼ばれるウイルス性の病気に罹っていた。
注射を3本。うち一本は例の高額注射。目薬は先生がさしてくれる。
さすが、ヤブ医者とは比べ物にならない手際の良さ。的確な治療。
3日間通うように言われ、治療を続けたが、吐きはしないがまだ咳がおさまらない。
抗生剤の飲み薬(錠剤)を持たされた。
「飲ませるのに大変かもしれないが、のどの奥に入れて」と言われたが、
ゼリーの缶詰を団子にして忍ばせたら、パクリッ。超簡単!
抗生剤が徐々に効いて、やがてチッチは完治した。
コロナウイルス(cobit19)も早く特効薬が開発され、完治できる病となることを切に願う。
2021年冬、チッチは寒さのせいか、また鼻がつまりくしゃみをしている。
猫風邪は免疫はできないものなのか?
1月9日(土)
「峠超え〜2020秋」
私は紅葉が大好きで、毎年秋の紅葉が始まると出かけたくてウズウズしてしまう。
タイミングを逃すと落ち葉になってしまったり、あるいは微妙に早すぎたりと、そこんとこの見極めが難しい。
これまでだと、車で2時間くらい走ってドライブがてら父と出かけたりもしたが、
決まって知ったかぶりの父の道案内でとんでもないところを走らされて、挙句に行き止まりだったり・・・、
折れる指示されて曲がれば、行く先が、あぜ道になったり・・・、
向かった先が工事現場で泥道になったり・・・、
道なりに走っていったらいつの間にか隣県だったり・・・、
そのたびに悪路で切り返ししながらUターンを幾度したことか。
それでも、喧嘩しながらも助手席に誰かがいてくれるだけで心強いものだ。
今年は「峠超え」をしてみようと思う。
我県から他県に抜ける峠は3ヶ所。うち1ヶ所が我町にある。もう10年近く通ってない。
最後に走った頃は、道幅も細く、車がすれ違えないほどだったが、紅葉時期は木々が道に覆いかぶさって風情があった。
峠の頂上には、ちょっとした茶店があって、スイカの漬物や山菜などが売られていた。
その後、道路の拡張工事が行われ、バンバン行き返るようになったといいます。
そのような立派な道路になってから行ったことがないので、「峠超え」しながら山の紅葉を楽しみたいと思います。
ちなみに父は基本、紅葉に興味がないので、今年はあっさり「おら行かねー」と拒否されました。
晴天の紅葉日和、独りでGO!
峠までは約30kmほど。
おそらく紅葉を見に来た人なのだろう、キャンピングカーやバイクが目立つ。
運送の大型トラックもけっこう走ってるので、先に行かせて紅葉を楽しむ。
道幅が2車線になって路肩も広いので、みんな車を停めて紅葉の写真を撮ったり、深呼吸したり・・・。
私は停まらず峠を目指して走った。
本道から脇のほっそ〜い道、いや道と呼ぶよりけもの道に分かれた。
ちゃんとした青い道路標識にも本道とけもの道(=○○峠)と書いてある。
目的の○○峠だが、なんだか遭難しそうで行く気になれず、まっすぐ本道を走り続けた。
トンネルを抜ければ隣県だ。
抜けて少し走ったところでUターンし戻ることに。
すると、また隣県側にも同じ青い道路標識があり、本道とけもの道(=○○峠)の分かれる標識があった。
すると、1台の普通車がけもの道(=○○峠)に入った!
おっ。やった!ついて行こう。
私もならって入っていった。
車がすれ違うのがやっとのほっそ〜い山道。落ち葉が堆積していて車が走った形跡も乏しい。
100mも走っただろうか、前の車がUターンしているではないか。
こんなほっそ〜い道で何度も何度も切り返しながらである。
げっ、なんで?
私は道の真ん中に、てか1台通るのがやっとの道幅なので、Uターンして向かってこようとする車に
訳を聞こうじゃないのと、降りて向かって行った。
「なんで戻るん?」
どんな人かも分からず、私も向こう見ずなやっちゃ。
みれば運転者と、助手席に大学生らしきふたり。
「いや、隣県に行きたいので」
「てか、隣県からこっち入ったんじゃん?」
「はあ、でも戻ります」
「そりゃないよ、あんたたちが入ったから私も来たのに〜(泣)」
「このまま進んだら峠に行くんですよね?」
ナビを確認するふたり。
「・・・閉鎖されてなければ、行けると思います」
「閉鎖されてなければあ!?・・・閉鎖もありってか?」
「分からないです」
「・・・・むむ」
閉鎖、と聞かされても私がここでUターンすることは無理。
そんな運転技術ないし、切り返したら崖から落ちちゃう。
もう進むしかないのだ(泣)
私は観念して、車を脇に寄せ、若者を送った。
もう、行くしかない。
ほっそ〜い、山道をとにかく進んだ。
落ち葉を踏みしめ、時にガードレールのない断崖を抜けながら、時には朽ちたトンネルをくぐりながら進んだ。
対向車がないことを祈りながら、登り道を恐怖と闘いながらひたすら走る・・・。
登りきったのだと思う。樹木が途切れて明るくなった。
枯れ木の杭が峠の証。
頂上は3差路になっていて、今来た登りと、この先の下り、それと峠の向こうにもう1本の道。
「・・・・ふむ」
未知の道に入ってみたい衝動はあるが、またとんでもない所に行ってしまう可能性大。
私はナビがない上に、こういう誘惑に嵌りやすいので危険きわまりない。
しかも私の車は古く、時々エンジンがかからなくなる、タイヤも古く、濡れてる落ち葉でスリップしたらアウトじゃ。
もう、ここまで単独で走っただけでも、もう十分危険なんだから、ここは自重し素直に下って、我県に抜けることにした。
家に帰って地図で確認したら、どっかの牧場を通って、隣県の奥〜に抜ける道だった。
行かなくってよかったよ〜。
さて、紅葉といえば新そば。
帰りの道すがら、蕎麦屋に立ち寄ることに。
評判は知らないが、○○山のふもとにあったはず。そこへ行ってみよう。
お客さんの入りもよい。お品書きは3種類しかないので、もりそばを注文。
きどって3種類しかない気の入れようなのに味はふつう。
紅葉も赤に乏しく、ふつう。
早すぎたのか遅かったのかも判然としない色づきだった・・・。
1月20日(水)
「伊達騒動〜2020年秋」
前回、峠越えしながら紅葉を堪能するはずでしたが、なんか不発に終わりまだ見足りない気分でおりました。
時期を同じくして、伊達騒動をえがいた山本周五郎原作「もみの木は残った」を読んおりまして。
この作品、何十年も前ですが、大河ドラマにもなり、主役は亡き平幹二郎。
伊達政宗の亡き後の跡目相続が発端となった騒動をえがいています。
直接関係ないものの、初代正宗が幼少の頃過ごした城下町が、我が家の近くにあります。
館跡は‘城山公園’という山の上の公園で、そこに立つ正宗像を見に行こうかと思い立ちました。
そこは、かつて私が通ってた幼稚園の遠足コースでした。
正宗像の前で記念撮影した園児の写真がアルバムに貼ってありますが、そこに私の姿はありません。
なぜなら、おたふく風邪に罹り、遠足に行けなかったのです。
写真でみる正宗像は巨大な立像です。一度は見てみたいと思っていました。
歴史好きの父も今回は「案内してやる」と意気込んでいます。
城山の登り口の角に、「芭蕉像もあるはずだ」と言う。
その芭蕉像を目印に左折すれば‘城山公園’に行けるのだと、父は言う。
助手席に父を乗せ出発!
「(・・・芭蕉・・・・芭蕉・・・ん?・・・ない・・・)」
「もう、踏み切りまで来ちゃったよ」
「いや、こんなに来ないうちにあるはずだった」
「だって、左になかったよ」
「おかしいな」
おかしいな、って言われても、もうUターンするしかないじゃん。
で、適当に角を折れてみる。
すると、案内標識があり、難なく登り口に到達。
だが、思った以上の急坂。
坂の途中で止まったら、マニュアル車の私はもうアウト!
「(怖いよ〜)」
身体が斜めになるくらいの坂道をグングン登る・・・登るしかないのだ。
ところが!
この坂道が工事中で、信号が赤になってるではないか!
父が「停まれだぞ」と言うが無視!
こんな所で停まったらおわりじゃ!
信号を無視して進む。
幸い対向車もなく、ていうか‘城山公園’に向かう車もなかったのだが。
公園までの中腹に駐車スペースがあったので、そこから上まで徒歩で登ることにした。
道はさらに細くなり、相変わらずの急坂が続く・・・。
私の足ならなんでもない登りなのだが、父には大儀で、私が後ろから押しながらエンヤコラ登った。
登りきった所まで車で来るべきだったのだ。
駐車スペースからさらに細くなっての登り坂なので、父は車では登れないと言うことだったが、
こんな急坂を徒歩で下りるのは更に危険だと思う。
公園は閑散としていて、誰もいない。
鬱蒼とした林の道が奥へ伸びているが、紅葉もイマイチ早いみたいで、パッとしない。
まずは目的の正宗像をみに奥へ進む。
30代頃、平服姿の正宗像。
他に見るものもなく、城山から正宗も見たであろう下界の景色を眺めるくらい。
父を公園に残し、ひとり私は車をとりに坂を下りることに。
近道に崖を下りる、まるで忍者じゃ。
父を乗せて、城山公園をあとに坂を下る。
「(この急坂では)もう二度と来れないかも」
駅にも行ったことがないので、来たついでみ寄り道することにした。
父がトイレ休憩してる間に、駅の道案内看板を眺めていた。
「あった!」
芭蕉像があったのだ。
それは父が言う左角ではなく、反対の右角だった。
行って見ると、同行の‘そら’の姿はなく、しかも
発砲スチロールの上に色を塗ったような、馬面のお粗末な芭蕉像だった。
父が記憶している芭蕉像は陶器でできており、そばには同行‘そら’が鎮座していたという。
角のお宅では衣装まで着せていたというのだ。
場所も反対側に移って、変わり果てた芭蕉像をみた父は
「じゃったもの(壊れ物、見る価値のない物)じゃないか」と言った。
同感です。
「南部道ははるかに見やりて岩手の里に泊る」芭蕉句
1月21日(木)
「所持金乏しく伊達騒動〜2020年秋」
私なりの解釈で伊達騒動とは、伊達藩60万石を分割せしめようと企む、一ノ関伊達兵部。
その陰謀を押さえ込もうと‘耐え忍ぶ’作戦の涌谷伊達安芸、松山周防、船岡原田甲斐。
松山が没したのち、涌谷伊達安芸の堪忍の緒が切れた。
というのは、年寄りは頭が固く、頑固になる。この涌谷の暴走が命取りとなった。
船岡原田甲斐はひとり悪人と罪をかぶり、命をなげうって伊達藩60万石を守り抜いた。
私から言わせれば、涌谷の頑固じじいさえ、堪えてくれていたら、原田甲斐ひとりが悪者にならないで済んだかもしれない。
というわけで、その頑固じじいをみに涌谷に行くことにしました。
涌谷の城は「もみの木は残った」の舞台のひとつでもあります。
なんらか資料があるでしょうし、紅葉と新そばも楽しみたいと思います。
父は伊達安芸のような頑固者で、いつもの「おれは行かねえ」を決め込み、薪割りをするつもりらしい・・・。
我が家は薪で風呂を沸かしており、近所から大量の木材をいただいていたのです。
このところ薪割りをしていた父ですが高齢のため、手元が狂いちょこちょこ怪我をしていました。
私が留守の時は手当てをする人がいないので、おとなしくしていて欲しいのですが
そんなことを聞く耳を父が持つわけもなく・・・。
雲ひとつない晴天。ドライブ日和。私はひとり涌谷を目指しました。
数年前(2015年)馬営競馬を城下に見に来たことはあったのですが、城には登らずじまいでした。
今回は城メインで楽しみたいと思います。
前回とは道が違って、城を目指していたのですが、なんだか左折のタイミングを逃したみたい。
公民館に寄って聞いたところ、やはり通り過ぎていました。
とても親切に教えていただき、無事到着。
城の中は思ったとおり資料館になっており、伊達騒動関係の資料はもちろん、代々の甲冑、書の揮毫などなど・・・。
展望室には地元出身関取の等身大パネルも。
3層の小さな城だけど資料館はなかなか楽しめました。
|
|
城へのアプローチ
|
この石垣だけが唯一の遺構
|
|
|
3層の城の中は資料館
|
伊達安芸の木像、その写真
|
城を出ると後背に道が延びています。
「(なんだろ?)」
|
|
あれは‘もみの木’ではないか!?
|
もみじの紅葉がキレイ
|
城の裏手は伊達安芸を奉る神社でした。
そして、あの2本はやはり‘もみの木’でした。
伊達騒動の‘もみの木’は原田甲斐の好きな樹木で、船岡から江戸のお寺に植えたことが由来です。
ですが、江戸には根付けず3度目にして、ようやく根付いたと伝わっています。
「もみの木は残った」は江戸のなんとかいうお寺にあるのを指しているのです。
ここ涌谷の‘もみの木’もたいそう立派なので、やはり江戸時代からのものでしょうか。
それとも大河ドラマ以降に植えられたのでしょうか。
石段を登った神社には、コロナ退散の輪があったりして、私もぐるぐる周ってきました。
さて、お賽銭を・・・、と思って財布をあけてびっくり。
いつもカード払いなので、現金を持っていない私は、お金を補充せずに来てしまったのです。
ご朱印も書いて欲しかったのに、書いていただいたら新そばが食べられなくなっちゃう。
ご朱印はまた次回てことで。
神社には、さっき城の中でみた伊達安芸の木像が安置されています。
「(あんな感じのおじさんだったんだね)」
今年は350年祭とのこと。その大きなパネルに350年祭の行事が載っています。
そのパネルに超イケメンの伊達安芸胸像が!
「(これじゃ木像と別人でしょーよ。)」
神社構内に設置されている胸像を見て、木造とのあまりの違いにツッコミたくなります。
超カッコいいんですけど。もろタイプなんですけど。
うそでしょ。
こんなイケメン江戸時代にいないでしょーよ。
てか、いたとしてもそれは伊達安芸と違うし。木像と似ても似つかないし。
ゴルゴ13みたいな眼光鋭いまなざし。
キリッと結ばれた口元。
眉間が物言う眉。
すっきりと通った鼻筋。
うそでしょ。
伊達安芸だなんてうそに決まってるし。
日本人離れしたナイスガイやんか。
もうすぐ1時。
どれ、蕎麦でも食べて帰るとするか。
すぐ近くに蕎麦屋があったので迷わず入る。
お店は、仕出しの注文が入ってるみたいで、てんてこ舞いしてる風だった。
私のほかに客は2人。
ほったらかされていた。
私が坐っても、注文をとりに来ない。
奥の厨房に声をかけたら、「お茶飲んで待ってて」という返事。お茶は「勝手に飲んでて」みたいな。
品書きを見るまでもなく、所持金1,113円の私、600円の‘もりそば’しか食べられないでしょ。
ん?待てよ。
‘天ざるそば’が1,100円で所持金ぴったし。
消費税はどうなってんだ?もし税込みだったら、‘天ざるそば’がいけるかも。
恥を忍んで聞いてみる。
税込みとの返事。
‘もりそば’から‘天ざるそば’に変更し、前払いじゃ。
天ぶらはごま油をブレンドしてるみたいで、ほのかにごま油が香ってました。
蕎麦が絶品。
美味しかったです。
残金13円。
帰りがけリサイクルショップに寄って、格安額でも物色しようかと思っていたのですが、
もう、‘おけら’になってはそれもかなわず、まっすぐ家に帰ります。
美味しいそばを堪能し、気分好く帰途につく私を、とんでもない事態が待ち構えているとも知らずに・・・。
つづく
1月25日(月)
「鉈(ナタ)と剃刀(カミソリ)の流血騒動〜2020年秋」
美味しい蕎麦に出会い、気分も上々に午後3時頃帰宅した。
玄関を開けて真っ先に私の目を捉えたのは、まさかの
「血!?」
茶の間には父。
何事もなかったかのように座椅子に坐っている。
「・・・ただいま」
茶の間の畳の上にも血。それは窓際に行くにつれ大きくなっている。
「部屋が血だらけになってるけど?」
と聞いて、初めて父がコタツの中に入れていた足を・・・出した・・・。
「木が足にぶつかって、、、」
何をどう見つけたのか、父は包帯のようなものを巻いていたが、そんなものは役に立たぬほど
巻かれていたものは地に染まり、ふくらはぎから血が溢れ真っ赤になっているではないか。
履いていたズボンを取り替えたらしく、畳の座敷まで家中父が歩いたところはすべて血の海になっていた。
とにかく、この足の血をどうにかせねば。
そう思って、応急処置したつもりになってる、包帯を退けて見てビックリ。
傷は思いのほか深く、大きく、とても私の手には負えない。
そんな大怪我に傷バンて・・・。意味ないじゃん。
「何時頃のこと?」
父は、私に激怒されると思ってか、曖昧に返答を濁して、本人もはっきり何時か覚えていないのだろうが、
どうやら午前11時頃のようす。
かなり時間が経過している。破傷風にでもなったら命取りだ。
あいにく今日は日曜日なので、私は急患指定になっている医院に電話をかけた。
内科医院だったが、とりあえず止血して応急処置だけでもしてもらえればいいだろう。
ところが、意に反して「外科に当たってください」、とのこと。
父のかかりつけの医者は、内科だが、怪我の処置もしてくれていたので、そのつもりで電話をしたのだが、
この当番医院では受け付けないという。
私は、応急処置だけでも、と食い下がったが、結局受け付けてはもらえず、
しまいには「救急車を呼んでください」と言われてしまった。
外科のある救急病院は隣市にあった。まずは電話をしてみる。
症状を伝え、「お待ちください」とオルゴールを延々聴かされた・・・。
担当医に確認しているのだろうが、長い長い・・・。
「もう、待ってらんねえよ」
これだから大病院は面倒くさい。大方、たらい回しになってるのだ。
私は勝手に電話を切り、近くの総合病院に当たってみることにした。
そこなら外科もあることに気がついたのだ。
電話をしたら、すんなり「来てください」とのこと。
「すぐ出ます」と、父の足にラップを巻きタオルで包んで車に乗せた。
はじめの2本の電話で散々待たされ、病院に着いた時点ですでに午後4時。
幸い、救急患者もなく、閑散とした病院内に患者は父ひとり。すぐ診てもらえた。
担当医は若い先生だった。
父の説明は「ナタで切った」になっていた。話しが違うじゃん。
血だまりになっていたし、腫れていたので、ナタから黴菌が入ったのかもしれない。
縫合が始まった。
私は待合で待っていた。
父の処置が始まってほどなくして、午後4時30分頃外科受付に腕から流血した女性があらわれた。
まだ血が止まらず、手首を押さえている。
持ってる布製のトートバックも血だらけになっていた。
でも、父の処置が終わらないと診てもらず、彼女は待合で待っていた。
「(どうしたんだろ?)」
私はたまらず聞いてみた。
「どうして怪我されたんですか?」
「自分で切ったんです」
え?
「何で切ったの?」
「カミソリです」
怖っ。
30歳くらいの彼女は、無表情で抑揚のない口調で、私の質問に即答した。
きっと心を病んでいるのだと思う。話してすぐ感じた。
「ここまで何で来たんです?」
「車です」
「自分で運転して?」
「そうです」
「車の中に血が付いちゃったんじゃないですか?」
「大丈夫です」
わからん。
血が止まってないのに、自分で運転してきて血が落ちないて、わからん。
看護士さんが応対する。
「もうすぐだから待っててね」
彼女は常連さんみたいです。
看護士さんの「もうすぐだから」に反して、父の処置はなかなか終わらなかった。
もうすぐ5時になろうとしている。
流血の彼女も待ちくたびれたのか「血が止まったので帰ります」と言い出した。
看護師さんが優しく「もうすぐだから待っててね」を繰り返す。
父の処置は1時間半かかってようやく終わった。
その後、薬がでるのを待って、家に着いたのは6時過ぎだった。
一緒に涌谷に行ってさえいれば、こんなことにはならなかったのに。
この罰当たりめ。
洗濯カゴに脱いだ血だらけのズボンを穴でも開いてるかと思って見たが、傷ひとつついていない。
不思議やなー。
どんな状況で、怪我したんだろ?
木が飛んできた?
ナタで切った?
ならば、なぜズボンが無傷なんだ?
とにかく、それから2日おきに処置をしに病院に通い、さらに私が家で処置をし、
抗生物質やら、痛み止めやら、軟膏やら、気が抜けない治療が続いた。
通院も3日おきになり、5日おきになり・・・
ようやく傷口がふさがったのが30日後。全治45日てとこでした。
我が家の災難、流血騒動「血痕は残った」の顛末。
1月27日(水)
「お値段以上?X'masケーキ〜2020冬」
我が家のクリスマスメニューは毎年、定番メニューです。
ケーキはホールで。
一年に一度くらいホールケーキが食べたいじゃないですか。
けど、我が家は父と私のふたりきり。
クリスマス時期の高価なホールケーキは贅沢すぎやしませんか。
昨年は経費削減で初めて、某菓子メーカーのカットケーキ2個入りをふたつ買って済ませてしまいました。
やっぱり物足りません。
「今年はどうしようっかな」
「またバタークリームが食べたいな」
あれこれ思案していたら、偶然、‘お手軽簡単手作りクリスマスケーキの作り方’をテレビで見た。
「簡単じゃん♪」
「これなら私にも作れそう♪」
というわけで、ダメもとで今年は手作りすることにしました。
24日、さっそく材料を調達に。
スポンジが2枚と生クリーム、苺があればできちゃう。
スポンジは10%offになっていたチョコレート生地を2枚ゲット。
生クリームは、絞るだけのタイプで、生地がチョコレートなので
チョコレートと生クリームの2本買っておく。
私は、お菓子作りなどしたことがないので、液状の生クリームを買っても使えないと思ったのです。
それと、苺がひとパック。
〆て、2,000円弱。
安いのか高いのか、微妙なお値段。
ボールに、生地一枚を入れ、苺を敷きつめホワイト生クリーム、その上に家にあった缶詰の
マンゴー、キウイを入れてホワイト生クリームを重ねる。
そうしてもう一枚の生地で蓋をする。
くるっ、と皿にひっくり返せば、ドーム型になる。
そこにチョコレート生クリームでデコレーションして完成!
「超簡単♪」
好きな果物をふんだんに入れられるところが好いじゃん♪
あとは毎年定番のシチューと、チキンを料理する。
なまチキンを砂糖しょうゆに朝から漬け込んでいたものを、フライパンで赤ワイン、紹興酒、黒酢、
ウスターソースを適当に入れて煮る。ソースたっぷりで食べたいのじゃ。
このチキンは父にも好評で、5本パックで買ってきてるので、25日も同じメニューでいける。
これまた年に一度のシャンパンで乾杯♪
さて、初めて手作りしたケーキから試食。
断面に果物がギッシリ♪
嬉しい♪
パクリ・・・。
うん、生クリームにチョコーレートクリーム贅沢だなー、マンゴーが利いてますね。
美味しい♪
ただ、生地がイマイチかな。
小さいかと思ったけど、ボリューミーなので今日半分、明日半分で十分食べ応えあります。
これなら来年も手作りでいけそうです♪
・・・けど、一回分500円て、どうなのかなぁ?
某菓子メーカーのカットケーキなら3個分なんですけど。。。
|